徳地和紙とは

鎌倉時代初期、東大寺再建の材木調達のために訪れた
俊乗房重源上人(しゅんじょうぼうちょうげんしょうにん)が製紙法を伝えて始まったと言われています。
その後、室町時代に大内氏が紙の生産を奨励し、江戸時代には毛利氏が、防長三白(米、塩、紙)の一つとして徳地、岩国、徳山で紙漉きを奨励し、重要な藩の財源となりました。そのため山口県域は江戸時代から明治初期までは日本最大の製紙圏として知られていました。

明治に入り藩の後ろ盾がなくなり、全国的に和紙産業が廃れていく中、徳地は原料となる楮、三椏、雁皮の生育に適しており、まだ活況を呈していました。

しかし、第二次大戦後の社会変化や他産業への転換などにより
急速に継承者が少なくなり、現在に至っています。

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    徳地ってどんな所?

    徳地は山口県のほぼ中央に位置し、2005年、俗に言う平成の大合併で、山口市、秋穂町、小郡町、阿知須町、徳地町が合体し、山口市徳地となりました。旧徳地町は山林が総面積の9割もありました。徳地自体が広い面積であったため、現在、山口市全域の4割近くを徳地が占めています。

    赤く塗りつぶしているところが徳地